南北朝史の概要

当社の発行する南北朝史論の論及文献
入門編 南朝皇室系図 南朝皇室系図 南朝公卿名簿 熊沢南朝と浅井・木下(豊臣)編 天内南北朝編 美作を含めた
総合完結編
日本歴史ロマン 日本書紀と古史古伝 南朝の星南朝公卿補任南朝熊沢家と浅井・豊臣の謎 浅井一族系譜論考―付録:南朝信広流熊沢系図 東日流外三郡誌と南北天内家 南朝皇室と後南朝伝説
S1:日本歴史ロマン
「南北朝時代論」
S2:日本書紀と古史古伝
日本歴史学入門
EA5:南朝の星
皇胤志巻五
E5:南朝公卿補任 E51:南朝熊沢家と
浅井豊臣の謎
E511:浅井一族系譜論考
付録:南朝信広流
熊沢系図
E52:東日流外三群誌と
南北天内家
E53:南朝皇室と
後南朝伝説

『中田』『南朝誌』
対『宮下』『美作文書』
南北朝とは鎌倉時代の中期、第八十八代後嵯峨(ごさが)天皇(在位:1242〜1246)の時代に始まる。
天皇に後の後深草(ごふかぐさ)天皇に成られた久仁(ひさひと)親王と、後の亀山(かめやま)天皇に成られた恒仁(つねひと)親王という2人の皇子がいた。 後嵯峨天皇は次に天皇とした久仁親王よりも、弟の恒仁親王をかわいがり、久仁親王(後深草天皇)を早々と退位させ、恒仁親王を亀山天皇として即位させ、次に亀山天皇の皇子の世仁(よひと・ときひと)親王が後宇多(ごうだ)天皇と続くが、久仁親王はこれに不満を抱き、釈迦堂に籠り、自らの執政復活を祈願して血で写経するなどの祈祷を行った。鎌倉幕府が仲介に入り、久仁親王の皇子たる煕仁(ひろひと)親王を伏見(ふしみ)天皇にさせ、以後、恒仁親王系統と久仁親王系統の交互に天皇を即位させる形にした。久仁親王は伏見天皇の裏で院政を行う形で念願の執政復活を果たし、満足して往生した。久仁親王は京都の持明院(じみょういん)を御所としたのでその系統を持明院統、恒仁親王は嵯峨野の大覚寺(だいがくじ)を御所としたのでその系統は大覚寺統と呼ばれた。
鎌倉時代の末期、大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇は鎌倉幕府打倒を企て楠木正成・新田義貞・足利高氏などの武将に呼び掛けて鎌倉幕府打倒の院宣を発して各地で起応した武士が次次に蜂起した。鎌倉幕府はこれに対抗して持明院統の量仁(かずひと)親王を光厳(こうごん)天皇に擁立して対抗し、ここに後醍醐天皇の系統を南朝、光厳天皇の系統を北朝という形で、本来この世に一人しかいてはいけないはずの天皇が同時に二人立ち、別々の年号と権力を持する形で、あらたな時代が始まった。これが南北朝時代の始まりである。
さて、足利高氏が京都六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉に攻め入ったことで鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇の建武新政という形で天皇親政が始まり、光厳天皇は廃位に追い込まれた。しかし、後醍醐天皇は貴族政治の復活を企図し、足利高氏(後の尊氏)系の武士たちの間で恩賞の多い少ないで不満が増え、後醍醐天皇の皇子の護良(もりなが)親王は足利尊氏派の切り崩しを図り、尊氏は後醍醐天皇の妃の阿野廉子(あのれんし・やすこ)をそそのかして護良親王を鎌倉に幽閉させた。時に鎌倉では元鎌倉幕府の北条氏の残党たる武士たちが反乱を起こした。尊氏はこの鎮圧に鎌倉に赴くが、後醍醐天皇はこうした尊氏の動きを不満とし、謀反人として兵を集め、討ちにかかった。尊氏は怒り、京を目指して攻め入るが、敗れ九州に落ち行くが、再び勢力を盛り返して中国路を攻めのぼり、北朝御所(京都持明院)にいた光厳上皇の皇子、豊仁(とよひと・ゆたひと)親王を光明天皇に即位させ、光厳上皇に院政を始めさせる形で京都に攻めのぼり、尊氏は勝利し、後醍醐天皇から三種の神器を取り上げて北朝に渡そうと謀るが、後醍醐天皇は神器に正器と偽器という形で本物と偽物を用意し、尊氏に偽器を渡したと称して吉野に遷り、北朝に対抗したことで南北朝の争いを再燃させた。
かくて吉野を中心とする後醍醐天皇系統が後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇と続く南朝と光明・崇光・後光明・後円融・後小松天皇と続く北朝とが互いに相争う時代となった。(南朝は3種の神器で皇位継承、北朝は宣旨だけの神器なしで皇位継承)。
なお、三浦芳聖なる者が南朝は正統(東山天皇に始まり、興国・小松・松良・大宝天皇の5代の天皇を指す)と副統(後醍醐〜後亀山天皇と続くいわゆる現在の南朝)に分かれたという説を出したが、これが三浦の作り話たることは 『南朝皇室と後南朝伝説』で証明した。こんなことがまかり通れば、南朝の中に南北朝が出来る筈で後醍醐天皇がそんな事を許すはずがないのである。
さて足利尊氏は京都六波羅で室町幕府を開き、武家政治の復活を図った。
しかし、北朝に仕える武士の武力と南朝に仕える武士の武力には差があり、次第に北朝とそれを擁護する室町幕府軍の勢力に南朝側はしばしば敗北し、弱体化していった。後亀山天皇は平和を望み、後小松天皇に神器を渡して交代で天皇を立てる形で話し合いを纏めようとし、神器を渡して皇位を退くが、北朝と室町幕府はそういう意図に従うつもりはなく、その際に南北両朝で結ばれた条約取り決めを破棄し、北朝側独占で天皇が続くこととなった。後亀山天皇は事前にこうした室町幕府と北朝の動きを察知して、吉野に籠り、皇子の良泰親王に宣旨を授けて皇位を与え、ここに招慶天皇が擁立された。これが後南朝の始まりである。
この後南朝は良泰親王・尊義王・尊秀王・勝王・尊雅王と続いて行く。この内、勝王については余り知られていないし、後南朝天皇遺跡がある川上村でも遺跡を顕彰していない。これが問題であるが、これについても当社の発行文献たる『南朝皇室と後南朝伝説』で明確な説明を行った。
さて、南朝の残党たちは北朝御所に攻め入って神器を取り返そうとするが、鏡と剣は失敗し、玉だけしか取り返せず、以後、その玉だけで皇位が継承された。しかし、長録元年から2年(1457〜1458)にかけて北朝と室町幕府の要請を受けた赤松党と称する武士の一団が吉野の川上村に攻め入り、玉を奪還し、南朝としての皇位を続行していた自天皇などを斬殺して玉を京都の北朝御所に奉還する形で再び北朝に神器全部そろった形での皇位継承を続行させた。
その後、南朝は全く滅びたわけではなく、各地に子孫と称する者たちがそれぞれに続いたが、二度と皇位の廻ることはなかった。応仁・文明の大乱の時に山名宗全が率いる西軍が南朝残党を擁護する形で室町幕府と争い、この際、南朝残党の側に立てられた王を西陣南帝あるいは西方新主などというが、その時は山名宗全の率いる西軍と細川勝元の率いる東軍の両方の総大将が戦い半ばでともに病死し、京都はほとんど焼け野原となったことで戦争の終結が図られてしまったので、南朝にとってはこれを機会に再興をはかろうとしていた意図も果たせず、以後は行方も定まらぬままに歴史の闇に埋もれていった。
時が流れ、明治から昭和にかけて南朝再興運動が起り、南朝残党を称する人々が各地で名乗りを挙げた。 これはいうなれば、江戸から明治にかけての尊皇運動の一つの流れで、明治期に北朝を神器なしの偽朝として皇統からはずして別に北朝五代として数え、南朝系の後醍醐〜後亀山帝を皇統に加える形で皇室系譜の再編が行われ、その流れの中で今まで即位したか定かでなかった長慶天皇も皇統に列し、新たな天皇譜が組まれることとなったということで、その流れに起応したもののようである。
さて明治に立った後南朝の子孫と称する人々の中で主なものに熊沢・天内・美作系などを称するものがあってほかにも伊藤系などがあるが、当社ではこれらの中で主要勢力となるもの別に
@熊沢編―『南朝熊沢家と浅井豊臣の謎』
A天内編―『東日流外三群誌と南北天内家』
B美作その他総まとめ説明完結編―『南朝皇室と後南朝伝説』
という形で説明を行いました。その他、各種購読お勧め文献をこの頁の冒頭に展示した。それらの実際の購読で目的を果たされることをお願いしたい。