浅井木下系図

この頁のテキストは
@豊臣・熊沢編:『南朝熊沢家と浅井・豊臣の謎』
A浅井一族編:『浅井一族系譜論考』です。

藤原公綱は嘉吉元年に近江浅井郡に勅勘を蒙って配流、地元で物部氏の女と懇ろとなり、子を産ませるが、配流から3年にして帰京。
子は成長後に浅井氏を起こし、2人の兄弟が生まれ、兄の忠政は浅井氏を継ぎ、弟は僧となり、昌成または昌盛法師と称すが、還俗して佐々木源氏系木下高泰家に聟入りして木下の姓を得、木下国吉と称し、帰農して農民となるが、子孫昌吉は信長に仕え、その子が有名な豊臣秀吉で秀吉は信長の後を継いで天下を統一、浅井長政の娘の茶々を側室に迎え、豊臣秀頼を生ませた。
すなわち、秀吉の祖先の国吉は浅井重政の子ということで、広い意味での豊臣秀吉と浅井菊子(茶々)の結婚は近親結婚といえる。
ただ、秀吉が信長の家臣ひいては後を継いで天下を統一していくという面では浅井と同族であるということは秘密にする必要があったと思う。
さて豊臣氏は秀頼の代に大阪の陣で徳川家康に敗れ、表向きの自害を装い、大阪城を脱出して九州に亡命したという伝説があるが、諸系譜・皇胤志の編者中田憲信はこれを採り上げ、伊集院家の保護のもとに代々続いだということで歴代の名を伝えている。
一方、昭和の聖代に天下を騒がせた熊沢天皇というのがいたが、この者の先祖たる玄理(もとまさ)は浅井良政の女(または孫娘)を嫁とし、徳川家康の客分に迎えられたが、三方が原で武田信玄が攻めて来た時に家康をかばって戦死した。幸い、子孫がいてそれが昭和の今日まで続いたというわけである。
熊沢天皇は後亀山天皇の皇子の孫の尊義王が奪還した三種の神器の一つである神璽によって即位した後南朝天皇の尊秀王の弟の尊雅王の子の信雅王の子孫を自称するが、中田の系譜では尊義王の弟の尊慶王の子孫の信広王の子孫ということで独自の系譜が筆録されている。本書ではこれに基づく論説が特徴である。
なお、熊沢系図は尊雅王の子の信雅王につなげますが、ほかに中田憲信は尊慶王の子孫の信広王につなげていて、その系図では信雅王は応仁文明の乱の最中に生まれたということで西陣南帝というのは不可能と言う可能性を暗示しています。

これらのことについて解説したのが
@豊臣・南朝熊沢一族編『南朝熊沢と浅井豊臣の謎』
A浅井一族編:『浅井一族系譜論考―付録:南朝信広流熊沢系図』です。



浅井系図

豊臣家は秀頼の代に滅びたので秀頼以外の子は省略。
木下国吉は僧から還俗後に宇多源氏佐々木高嶋流木下家に聟入りして木下姓を得る。
だから豊臣秀吉の出身は百姓にあらず!
正室の寧々の本家姓は杉原で、寧々が木下藤吉郎秀吉の妻になり、杉原家も秀吉に仕えて木下姓を許されたわけで、杉原の姓は寧々の実家の元々の姓である。木下姓は賜姓である。
いうなれば秀吉が寧々の家に聟入りして木下の姓になったと云うのは嘘である。