歴史を題材にした歌



次に述べる歌は歴史を題材にした歌を述べたものです。皆様どうぞご鑑賞ください。歌の一部は 『日本歴史ロマン』(S1)『日本書紀と古史古伝』(S2) にも掲載してあります。ぜひお読みください。

志賀嶋 金印たまう 神武帝
(しかのしま きんいんたまう じんむてい)
後漢国 金印賜い 漢委 神日本にて 奴は狭野の野と
(ごかんくに きんいんたまい かむやまと かむやまとにて ぬはさぬのぬと)
[志賀嶋の金印に書かれた文字である「漢委奴国王」は「カムヤマトのヌのクニのオホキミ」(神倭野国王)と日本式に当てなおせます。 すなわち、「神倭」は「神倭磐余彦」の「神倭」、「野」は幼名たる「狭野」の「野」、「国王」とは「天皇」を指します。]

神武帝 饒髄倒し 橿原に 朝廷定めて 始馭天下之天皇
(じんむてい にぎすねたおし かしはらに みかどさだめて はつくにしらす)
[神武天皇は饒速日尊・長髄彦を倒し、橿原に朝廷を定めて、始めて天下を治める天皇となられました]
崇神帝 弭手末 調決め 四道平定 御肇国天皇
(すじんてい ゆはずたなすえ みつぎきめ しどうへいてい はつくにしらす)
[神武天皇と崇神天皇はどちらも「はつくにしらすのすめらみこと」と呼ばれることで神武天皇を架空の天皇と叫ぶ学者が多いです。この歌はそんな疑問を一掃し、二つの意味合いの違いを説いた歌です。始めの歌は神武天皇が東方を征伐し、饒速日尊と長髄彦を倒して橿原に朝廷を定めて始めて天下を治められた天皇の御業績を詠った歌です。
次の歌は崇神天皇が今の税金に当たる調(みつぎ)として男は弭(狩猟採集物)、女は手末(手工業製品−織物など)を納めることを定め、四道将軍を国々に派遣して全国を平定して日本を法治国家として定めて初めて大和の覇権を確立した天皇と云う意味です。このように同じ「はつくにしらすのすめらみこと」と云う称号でも崇神天皇と神武天皇では全然意味が違います。二人を同一視するとか、神武天皇はいないとか、考えるのは完全な誤りです。いろいろな天皇像についてお知りになりたい方には当社の『歴代天皇御陵図鑑』などをお勧めしておきます。]

邪馬台国 女王ヒミコ 治む国 正体問えば 大和の朝廷
(やまとくに じょうおうひみこ おさむくに しょうたいとえば やまとのみかど)
(「邪馬台国」は「やまたいこく」と読まれたためにどこかにあるのか分からず、九州説と畿内説を主流に様々な候補地が名乗りを挙げて長い論争を繰り返しています。 あれは「やまとのくに」と読むのが正しいのであって「やまたいこく」と読むのは単なる音読みに過ぎません。 そんな読み方をするから、多くの人が様々なありもしない空想の世界を求めて様々の邪馬台国異次元神秘世界を作り出してしまうのです。 先ほども述べたように「邪馬台国」の「台」は「興台魂神」の「台」ですから、「と」と読むのが正しいのです。邪馬台国は日本国内にあるのです。訓読みで「ヤマトノクニ」と読んでどこがおかしいというのです。女王ヒミコが治めたとされていますが、 正体は当然、大和朝廷です。九州説など、当時の日本に二つの中央政府ありと唱える説もありますが、そんな説はすべて妄想、所詮は砂上の楼閣です。大和朝廷である以外に答えなどあろう筈はないのです。この国について詳しくお知りになりたい方はぜひ、当社の『一味違うヒミコと五王』の購読をお勧めします。断っておきますが、「ヤマタイコク」と読んだところから全ての誤りが始まったのです。そんな名前の国などどこにもありません。 確かに大和朝廷の起源は九州にあります。神武天皇は九州より大和に進軍して大和に朝廷を建てました。その意味でかつて九州にあったという説もあながち無理とは言えません。
ただ、『魏志倭人伝』のいう邪馬台国時代は西暦3世紀頃となっていますので、この年代にこの国がどこにあったかが問題なわけです。それを九州と説くのはあり得ないということです。

さて、巷では『まぼろしの邪馬台国』という映画も作られて眼の不自由な人が邪馬台国九州説を説いて話題となりました。 しかし、中身は御土地ソング。自分の故郷に邪馬台国を誘致したに過ぎません。
御自分の郷里に邪馬台国を誘致したり、邪馬台国が丸で日本史の始まりで卑弥呼=天照大神と決めつける説を唱える人もいますが、みなおかしいです。
そこまで歴史を縮めては後で寸づまりになるだけです。真実は一つでいいのです。
邪馬台国は大和朝廷。崇神帝と神武帝は別の王、これで何の苦もなく日本古代史は解決するのです。 詳しくお知りになりたい方は当社発行の日本古代史シリーズコーナーの本を御購入ください。)

倭の五王 讃は仁徳・履中とて 珍は反正 済允恭 
(わのごおう さんはにんとく・りちゅうとて ちんははんぜい さいいんぎょう)
興木軽 武は雄略 呉晋宋
(こうきがる ぶはゆうりゃく ごしんそう)
(中国史書に出てくる倭の五王たる讃・珍・済・興・武は実は日本書紀に出てきます。三国史記にも百済・高句麗・新羅各本紀にきちんと該当記事があります。 讃は仁徳天皇と履中天皇を合わせた名、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は木梨軽太子、武は雄略天皇、日本書紀には晋・宋に当たる地域を呉という言葉で表現しています。 使者の名も半島を通って百済・高句麗揃って三国の使者が中国に渡り、帰りに新羅と戦争して帰った話が浮かび上がってきます。 以上のことも『一味違うヒミコと五王』『日本歴史ロマン』『日本書紀と古史古伝』に載せました。ぜひ購入を検討してください。

蝦夷・熊襲 征伐せしは 日本武尊
(えぞ・くまそ せいばつせしは やまとたけ)
(四世紀に蝦夷と熊襲を征伐したのが日本武尊です。この人物の名前は通常、「やまとたけるのみこと」と読まれていますが、実は「やまとたけのみこと」が正しく、『神皇正統記』『古語拾遺』にその形で振り仮名がついています。『日本書紀』『古事記』の古い写本にもこのような振り仮名を用いているものがあります。ただ、これに対して「稲荷山鉄剣」を根拠に「やまとたけるのみこと」が正しいと云う説を立てる人もいますが、いつの世にも偽物はあります。「稲荷山鉄剣」はその偽物なのです。
タケルは蛮族の酋長を意味する差別言葉。タケは武勇を示すほめ言葉つまり美称。タケルからもらった名だからタケルと読むべきなどと言う解釈は誤りである。ルの文字は後世(明治期)に勝手に足した文字でもともとは存在しなかった。 これらについて詳しく知りたい方は『古代の星―皇胤志巻1』 さらに参考文献として『二つの美社神字解』などの購読をお勧めします。)

青森の 十和田に眠る キリストよ
(あおもりの とわだにねむる キリストよ)
(青森県三戸郡新郷村の戸来ヶ丘に「キリストの墓」と呼ばれる遺跡があります。兄弟二人の墓が対に並んでいるように看板が建っていますが、実際は前方後円墳と見られ、東側にももう一つの前方後円墳と思われる遺跡が並んでいます。十字架にかかったキリストは本当は弟で兄は日本に亡命してこの青森にやってきて生涯を過ごし、戸来ヶ丘に埋葬されたと言い伝えられていますが、異説もあって戸来ヶ丘はキリストが日本に残していった物やキリストの家族を埋葬した所で本当のキリストはこの戸来の地より、また旅に出て遠く北米の地に渡り、そこで亡くなったと云う説もあります。キリストについてお知りになりたい方は当社の 『日本超古代遺跡紀行』『日本超古代文明の神秘』『竹内宿禰と探る日本古代史の謎』『東日流外三郡誌と南北天内家』などをお読みください。) 発表論文一覧へ

北陸の モーゼの眠る 宝達山
(ほくりくの モーゼのねむる ほうたつさん)
(石川県能登半島の付け根に宝達山という山があり、その麓の三つ子塚古墳という古墳は聖書の十戒をユダヤにもたらした聖人モーゼの墓といわれています。これについて知りたい方は当社の『日本超古代文明の神秘』などをお読みください。)
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義経が 大陸渡る 成吉思汗
(よしつねが たいりくわたる ジンギスカン)
(源九郎義経は兄の頼朝と仲が悪く、鎌倉を追われて平泉で藤原氏に殺されたことになっていますが、実は藤原氏が偽戦を演じて、泰衡が助けて弟の頼衡と忠衡を連れて北海道から大陸に渡り、ジンギスカンになったという伝説もあります。これについて論考した本には『源平の星』『東日流外三郡誌と南北天内家』『ロマン的武家歴史論』『日本書紀と古史古伝』 などがあります。)


どうですか。皆様、お楽しみいただけましたか。歌に関する感想や自作の歌(テーマは歴史)も募集しています。