中田憲信とはどんな人



明治の時代、南朝の天皇ー第97代後村上天皇第18世の孫にして今の最高裁判所に相当する大審院の判事になった中田憲信という人が現れ、『皇胤志』・『各家系譜』・『諸系譜』などの作品を残し、さらに帝国古蹟取調会理事を務め、機関誌『古蹟』に寄稿し、好古社の機関誌『好古類纂』に数種の系図論文を寄稿するなど活躍した。著者はこれを分析し、『系図纂要』などを中心とした多くの系図集をもってこれを補完し、図書目録にあるごとく数種の解説書を刊行しています。
また、ほかにも、様々な資料をもとに、様々な系図関係書を刊行しています。
また、中田憲信は南朝皇胤ということで、当社ではこれをベースに様々な南朝伝承を採取し、その方面の解説書も発行しています。



※中田憲信一族党の歴代一覧
以下、時代は年は西暦、月日は和暦で記載。出典は『南方遺胤』−図書目録の『南朝の星』に掲載。
第1世ー後村上天皇(嘉暦三(1328)年九月八日〜延元四(1339)年八月十五日受禅〜正平二三(1368)年三月九日譲位〜同年三月十一日崩御、四十一歳)
第2世ー泰成親王(第1世の皇子、正平十五(1360)年十月二十三日〜応永三(1396)年九月十三日、文中二(1373)年の後亀山天皇時代に一旦、皇太子となるが、天授五(1379)年に辞して、太宰帥となる。三十七歳、長慶天皇の譲位が弘和三(一三八三)年となったのはこの親王の存在を無視したため、実際は長慶天皇は文中二(一三七三)年八月二日に退位済み)
第3世ー泰邦王(第2世の王子、弘和二(1382)年〜嘉吉三(1443)年九月二十五日、比叡山で戦死。六十二歳)
第4世ー定忠王(第3世の王子、応永二五(1418)年〜文明十一(1479)年四月十二日、六十二歳)
第5世ー通直(第4世の王子、嘉吉三(1443)年六月十五日〜文亀三(1503)年十月、六十一歳)
第6世ー親熙(第5世の子、応仁元(1467)年〜天文九(1540)年八月四日、七十四歳)
第7世ー教熙(第6世の子、長享二(1488)年〜永正十四(1517)年三月一日、三十歳)
第8世ー教貞(第7世の弟、永正六(1509)年〜天文十二(一五五〇)年三月十八日、四十二歳)
第9世ー教家(第7世の子、永正十四(1517)年〜天正十一(1583)年七月二十三日、六十七歳)
第10世ー教有(第9世の子、天文二十(1551)年〜寛永二(1625)年十月四日、七十五歳)
第11世ー有輔(第10世の子、天正十九(1591)年〜正保三(1646)年九月三日、五十六歳)
第12世ー信氏(第11世の子、寛永二(1625)年〜貞享三(1686)年四月五日、六十二歳)
第13世ー信頼(第12世の弟の通詮(寛永五(1628)年〜元禄十一(1698)年六月七日、七十一歳)の子、承応三(1654)年〜享保二十(1735)年九月十二日、八十二歳)
第14世ー為頼(第13世の子、貞享三(1686)年〜明和六(1764)年四月十九日、七十九歳)
第15世ー為秀(第14世の子、享保五(1720)年八月〜天明四(1784)年九月十八日、六十五歳)
第16世ー為有(第15世の子、宝暦元(1751)年十一月十六日〜寛政三(1791)年五月二十五日、四十一歳)
第17世ー有信(第16世の子、天明四(1784)年二月二十三日〜天保十四(1843)年十月二十九日、六十歳)
第18世ー中田憲信(第17世の子、大審院判事、天保六(1835)年一月六日〜明治四十三(1910)年五月十六日、七十六歳、兵庫県神戸で没す。)