後南朝について

後南朝について




※ 後南朝という言葉を閲覧者の皆様は御存知でしょうか。
後南朝について、皆様は学校でどんなふうに勉強されましたか。ほとんどの人は知らないと思います。 実は、南朝と北朝は長い闘いに疲れ、第99代後亀山天皇の代に和平協定を結び、ひとまずの休戦を迎えます。この時、後亀山天皇は三種の神器を北朝の後小松天皇に渡して、今後は交代に天皇を即位させようという協定を結びます。しかし、北朝も室町幕府も南朝に皇位を継がす気は全くなく、北朝天皇だけがどんどん続いて行くことになりました。この陰謀を悟った後亀山天皇は再び吉野に籠り、同行した皇子の良泰親王に宣旨を以て後招慶天皇(後南朝第1代)の位を授けました。しかし、この天皇のことは歴史には余りなく、単に招慶院(寺の名)で出家した親王がいたということだけが歴史に残ります。後亀山天皇と良泰親王はやがて幕府の願いで帰京して幕府に厚く処遇されますが、良泰親王は不満で病気にかかり、川上村の近くの東川で死んでしまいます。
子の尊義王は室町幕府に抗議して北朝御所に攻め入り、3種の神器の奪還を謀ります。しかし、鏡と剣は戦闘の最中に逃走路に置いていくことになり、幕府軍に取り替えされます。そして比叡山延暦寺に落ち延びるのですが、叡山の僧は味方せず、籠った釈迦堂で敵に周囲を取り囲まれて逃げ場を失います。その際、実は持っていた玉を使って即位を行い、すぐに退位をして子の尊秀王に譲位して尊義王は自害します。
ここで一つの問題が起こります。一部の後南朝研究家が当時、良泰親王がまだ生きていて、この王も乱に参加して叡山釈迦堂で自害したのはその良泰親王であるという説を唱えたのですが、これは誤った説だったようですが、閲覧者の皆様は惑わされないでください。この時の乱を禁闕の乱と呼ばれ、嘉吉三(1443)年に起こりました。

尊秀王は父王から授かった玉だけを持って川上村に落ち延び、後南朝第3代天皇に即位します。時は嘉吉4(1444)年で北朝年号では文安元年とされています。南朝ではこの年を天靖元年と定めます。しかし、これも誤解されたようで一部の後南朝学者が天靖元年は神器を北朝御所から奪還された嘉吉三(1443)年と誤解してしまうのです。
尊秀王はやがて政務を続けられず、御悩の病気にかかり、子の勝王に譲位します。時に天靖11(1454)年2月5日のことでした。翌1455年1月4日に尊秀王は45歳で病死されました。しかし、また問題が起こります。 実は尊秀王は年齢を誤解されたのか、一部の後南朝史を伝える人々の間で尊義王と混同されて尊義王が玉を持ち帰って45歳で病死されたという説が立って通説となります。時は康正元(1455)年のことでした。

この後を受けて立ったのが勝王で、通常、自天皇と呼ばれますが、勝王は父の尊秀王と混同されてしまいます。 さて、室町幕府は赤松氏の武士の集団で赤松党という一団に3種の神器の一つである玉の奪還を命じます。赤松党は川上村に密かに後南朝御所に仕える形で潜入して、後南朝御所を襲撃して御所にいた勝王を殺して玉を奪還します。時は北朝年号で長禄元(1457)年12月で、勝王は当時、18歳で薨去されます。 時に同席していた國貞王も同じく16歳で殺されるのですが、なぜか勝王は尊秀王、國貞王は忠義王と誤解されて後南朝学者の間に唱えられて定説と化します。実は忠義王はこの時の後、35歳まで生き延びて文明12(1480)年薨去します。
なお、この時の1457年に勝王・國貞王とともに襲撃された王に尊雅王という王がございました。尊雅王は途中、益戸基助を立てて光明寺まで逃亡し、そこで尊雅王に代わって益戸基助が敵に討たれ、亡くなります。敵はこれを京都に報告する時に尊雅王を殺したと誤解して報告。尊雅王はこれを好機に生きて名を尚尊王と改名、尚尊王は延徳3(1491)年まで生き延びられました。尊雅王の年齢は定かではありませんが、永享2(1430)年誕生説が有力でその場合は62歳頃になるでしょう。

さて、以上は後南朝の辿った経緯でありまして出典は中田憲信の語る皇胤志と諸系譜および清水家に伝わる『南朝志』などであります。以上を「後南朝正史」と呼びましょう。
ただ、誠に残念ながら、後南朝史は数々の誤った経緯により、戦争の舞台となった京都・吉野・川上村などで様々な誤解を生み、この中で当時、京都で起きた応仁・文明の大乱で西軍の大将の山名宗全が担いだ後南朝王(一般的に西陣南帝と呼ぶ)が誰であったかは分かっておりませんが、年齢で王は16歳で小倉宮家の出であったとされています。この時の候補でまず、尊雅王の子に信雅王がいてこの王が立ったと主張したのが熊沢家の説で、これについて解説したのが@「南朝熊沢家と浅井・豊臣の謎』でございます。熊沢家は浅井長政家と親戚筋に当り、浅井長政の娘の茶茶姫は豊臣秀吉に嫁ぎました。そこで解説の際に浅井家・豊臣家・熊沢家セットで述べようという企画になり、ここで1冊結実した次第です。
ただ、余りに長過ぎて後で浅井家だけ別に1冊起こそうという企画になり、 『浅井一族系譜論考』として続編を起こしました。
また別に尊秀王の子に尊煕王という王がいて王は東北の天内家が奉じられました。そこでこの家の動向を解説しようという企画で、別に対抗王で北朝にも天内を称する別家があったということが『東日流外三郡誌』にあったので、一緒に述べようということになり、 A 『東日流外三郡誌と南北天内家』として結実しました。
ただ、まだ、後南朝史は簡潔に至らず、実は先ほど述べた『南朝志』の発見により、一番妥当な「後南朝正史」が組み立てられたことと、合わせて忠義王を西陣南帝と唱えた美作の流王家の歴史書を分けてくれた方がいたので、それをセットにしてこれで南朝史を完結させようという企画が発動して、B『南朝皇室と後南朝伝説』として結実致しました。後南朝史は以上の3冊(@AB)をセットで順に学ばれるのが常道ではありますが、最後に挙げた『南朝皇室と後南朝伝説』の1冊でも、その全貌が掌握できると考えます。
閲覧者のみな様、ぜひ、後南朝の歴史を解明のため、以上の書の御購入を御検討下されてこの闇に消えた後南朝史の解明に挑戦しようではありませんか。